祈りと垂直の沈黙 ―― 大峯山(山上ヶ岳)

旅の起点は、天川村「洞川(どろがわ)温泉」にある。 標高八百メートル、関西の軽井沢と称される涼やかな山里だ。だが、その瑞々しい風景の裏側には、常にぴんと張り詰めた「聖」の気配が漂っている。温泉街を抜けた先、林道の終着点に佇む「大橋茶屋」に車を停め、私はひとり、あるいは一人の男として、この垂直の迷宮へと足を踏み出す。

結界の向こう側

清浄大橋を渡ると、そこに「女人結界門」が立ちはだかっていた。 現代において、この門はひとつの境界線だ。ここから先は、女性の立ち入りを拒む「禁制」の世界。それは差別というよりは、古来の厳格な規律を今日まで守り抜いてきた「執念」に近い。門をくぐり、杉の美林を抜けていく。一本松茶屋、お助け水。冷涼な「ごろごろ水」の恵みを喉に流し込み、七曲りの急坂に挑む。

世界遺産「大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)」に合流したとき、私は自分が長い長い時間の層を歩いていることに気づく。

捨身と勇気 ―― 行場を往く

洞辻茶屋(どろつじぢゃや)のレトロな軒先を抜け、道はいよいよ険しさを増していく。「ようお参り」という、この山独特の挨拶が交わされるたび、見知らぬ登山者たちが同じ「行(ぎょう)」を共にする同志のように思えてくる。

「西の覗(にしののぞき)」。 断崖絶壁から身を乗り出し、自らの命を仏に預ける捨身の行場だ。そこからの眺望は、稲村ヶ岳の鋭いピークと、遥か金剛山系を望む。足がすくむような高度感の中で、人は自分の命の重さを再確認することになるのだろう。

辿り着いた山上ヶ岳の頂、大峯山寺の本堂は、圧倒的な存在感でそこに沈黙していた。五月から九月、戸開けの期間だけ許される参拝。私は本堂に頭を垂れ、ここが数多の行者たちの汗と涙を吸い込んできた場所であることを、肌で感じ取った。

選択肢としてのレンゲ谷

下山は「レンゲ谷ルート」を選んだ。 だが、これは万人におすすめできる道ではない。日本岩を越え、レンゲ辻へと降りる道は、細く、鋭く、神経を削り取るような急下降が続く。鎖を掴み、一歩一歩の摩擦を信じて下る時間は、まさに修験の厳しさを体現している。

女人結界門のあるレンゲ辻から谷へと潜り込めば、風景は一転して秘境の趣となる。バイケイソウの群生、苔むした岩、そして清冽な沢の音。崩れかけた橋を渡り、ようやく林道へと戻ってきたとき、全身に心地よい疲労が、潮のように押し寄せてきた。

句読点としての洞川温泉

再び大橋茶屋へ戻り、汗を拭う。この旅の締めくくりは、洞川温泉センターの檜の湯でなければならない。 吉野杉の香りに包まれながら、火照った身体を湯に沈める。窓の外を流れる川のせせらぎを聞きながら、私は今日歩いた垂直の距離を思い返していた。

陀羅尼助丸(だらにすけがん)の看板が並ぶ昭和のような温泉街を歩くとき、私はようやく、異界から日常へと戻ってきたことを実感する。 大峰は、ただ登る山ではない。 そこは、歩き、祈り、そして己を脱ぎ捨てるための場所なのだ。

MUKUパートナー大橋茶屋さん

男たちが己の業を背負い、垂直の絶壁に身を乗り出す「行」を終えたとき、肉体は空っぽの器と化している。細胞の一つひとつが、乾き、叫んでいるのだ。そんな剥き出しの胃袋を抱えて山を降りてきたとき、清浄大橋のたもとで迎えてくれるこの茶屋の存在は、もはや救済に近い。

琥珀色の救済

ここのうどんを啜った瞬間、私は戦慄した。 立ち昇る湯気と共に、琥珀色の出汁が五臓六腑へ、指先の末端へと染み渡っていく。それは単なる味覚の満足ではない。山に吸い取られた生命力が、熱い液体となって身体の内側へ還流してくる悦びだ。 地元の山菜がこれでもかと盛り付けられた丼の中には、天川の清冽な水と土の記憶が凝縮されている。それを無造作に、しかし敬意を持って胃に収める。隣で地元客が煽るビールの、なんと旨そうなことか。運転という枷(かせ)さえなければ、私も間違いなくあの黄金の泡に溺れていただろう。

結界を見守る貌

店主の眼差しがいい。 午後二時という、登頂には遅すぎる時刻に挑もうとする無謀な客を、危ぶみながらも静かに送り出す。そして六時間の格闘を経て帰還したとき、その顔を忘れずに「ようお参り」と迎えてくれる。その記憶の精度、あるいは優しさこそが、この過酷な修験の道を支える真の背骨なのだ。 店を切り盛りする女性たちの、はつらつとした美しさも、疲弊した眼には一服の清涼剤となる。

道具の句読点

駐車場にどっしりと腰を据え、トイレさえも清廉に保たれたこの場所は、観光客にとっては快適な広場かもしれない。だが、山へ入る者にとっては、ここが「最後」であり「最初」の拠点なのだ。 使い込まれた「MUKU」のストックを店の軒先に立てかけ、ようやく一息つく。 ここでの一杯のうどんは、再び日常という名の戦場へ戻るための、厳粛な儀式である。

大峯という巨大な塊に挑んだ後は、ここで魂を繋ぎ止めねばならない。 またあの出汁の深淵に触れるために、人は再び、厳しい「修行」へと足を向けることになるのだ。